すべては「必要とされるか」

退職後、幸福を感じ続けられる条件

退職後の中高年男が、その後の人生でも「幸福」を感じながら生きていけるか、を左右するものは、会社を離れた後でも、誰かに「必要とされるか」に尽きると思います。

それは、「居場所があるか」と言い換えることもできます。

たとえ厳しい環境に居ても、誰かに必要とされている限り、希望と喜びを持って、踏ん張りながらも生きていけます。
逆に、誰にも必要とされていないと自覚した瞬間、自分の存在価値や生きる意味を見失い、今一瞬の気力すら無くしてしまうものです。

社会で「必要とされるか」

これまでは、会社の中で、しかるべきポジションに居ること自体で、または与えられたミッションに取り組むことで、日々、何を疑うこともなく、自分は「誰かに必要とされている」と、自らの存在価値を、容易に感じることができました。

終身雇用の正社員の場合は、同時に、「定年までの居場所を確保できた」と思い込むことも可能でした(今や、公務員でもない限り、たとえ大企業に居ても何の「保証」もありません)。

就業は、最も簡単に社会参加の手応えを感じられる手段であり、客観的に見れば、単に「人足」や「作業者」として使われていたとしても、与えられた仕事に集中している間、本人は思考停止しているので、改まって自分の存在価値を疑うことはありません。

実は、そうした「働き甲斐」の演出こそ、賢い経営者の腕の見せ所とも言えます。

そのいう状態で心地よい場合は、早期退職後も再就職などして新たな組織に帰属すれば、自分の存在価値を感じ続けることができるので、「社会に必要とされるか」の不安を、今の思考から排除することは可能です。

早期退職後、例えばフリーランスになった場合は、仕事をうまく受注できている間は、「自分のスキルは、会社に属さなくても社会から必要とされるものだ」と、サラリーマンの時以上の喜びや手応えを実感できます。

しかし一方で、一旦依頼が途絶えた後のインターバルが長くなってくると、「自分は社会から必要とされていない」と感じだし、自分の存在価値まで疑ったりします。

フリーランスは、そんな自分の存在価値と常に向き合い続けることが宿命かも知れませんが、それはそれで、周りの物差しで生きている点では、結局のところ、サラリーマン時代と何ら変わっていない貧しいマインドセットとも言えます。

今もなお、同じ会社で可能な限り働き続けたいという中高年が多いのは、単にお金の問題だけでなく、これまでの会社勤めに変わる自らの「存在価値」や「居場所」を、自分の力で見つける自信や力量がないから、に違いありません。

家庭で「必要とされるか」

あくまでも私の考えですが、家の購入や子育てなど、家族についての主要イベントをやり終えた時点で、その原資や餌を工面してきた父親の役割は完了しており、生物学的にも、家庭における存在価値も、もはや収束していると言って過言でないと思います。

次世代たる子ども達を、安全かつ一人前に育て上げた後の親は、早晩、周りに迷惑をかけずにひっそりと去って行くだけの存在と考えるのが、むしろ「自然の摂理」でしょう。

しかし、それでも、母親は、特に子どもが女の子の場合には、その後の娘の人生における結婚や出産など色んな局面において、重要なアドバイザー的役割を果たすことが期待されるので、家庭内での存在価値はあり続けます。

一方、父親はどうでしょう。

男の子は、社会に出た後、先輩である父親に相談したりアドバイスを求めるようなことなどは稀で、むしろライバル関係になって反目することすらあります。

母親と違って退職後の父親は、子どもにとっての必要性が小さくなり、そもそも家庭における存在価値はもはや風前の灯火となっているのです。

それゆえ、退職後の中高年男の家庭における存在価値は、配偶者との関係性が全てとなると実感します。

もし、もうそこに、愛情や友情なども残っていない場合は、もはや、退職後の中高年男の存在価値や居場所を、家庭に求めることには無理があると考えるべきです。

今から出直して、自分の家庭内の存在価値を認めてもらおう、創り出そうなどと頑張りだすことは最悪です。

これまで何とか保たれてきたそれまでの「家庭内平和・バランス」すら失うことになりかねないので、退職後の家庭は、これまでと同様、配偶者に禅譲したものとして「諦念」し、他に目を向けることが肝要です。

結局、誰にも必要とされない場合は

誰かに提供して喜ばれる価値も、関心を買い続けるようなお金もなく、とにかくもう、自分は社会や家庭で誰にも必要とされていない、と自覚するに至った場合には、どうすればいいのでしょうか?

まずはもう、ジタバタせず、社会や家庭に対する「承認欲求」を捨ててしまうことだと思います。

これまでは、会社で上司や周りの評価を得ることに、随分腐心してきたでしょうが、今後はもう、そういう世界と距離を置くしかありません。

また、配偶者や子どもたちに頼られることを、自分の心の糧としてきたでしょうが、これからはもうそういうことはないものと、自分に言い聞かせることです(お金の無心はともかく)。

その上で、自分の嗜好のエネルギーや努力やによって、社会や家庭以外の「自分だけの居場所」を見つけることです。

すなわち、誰が何と言っても、没頭」できる自分だけの嗜好やテーマを見出すのです。

それは、自分の精神世界に、心地よい居場所(逃げ場所)を確保するということに他なりません。

ボランティアで社会参加して、誰かの喜びを自分の喜びとすることで元気になれる方は、それで充分に幸せになれると思います。
しかし、誰かの真似や義務感だけで参加して、そこに現役時代のメンタリティーを持ち込んだりすると、まずうまくは行かず、先方にも多大な迷惑をかけてしまいます。

そんなコミュ障な中高年でも、例えば、世間と距離を置きながらも、素晴らしいものを生み出している芸術家や表現者のような存在にあやかることは可能です。

会社人生を通して労働や納税で十分社会貢献してきたし、家庭も守り続けたのですから、もう、他人との関わりもしんどいのであれば、これからは、自分自身だけが幸せを感じることができる「個人的テーマ」だけを希求すればいいのです。

もうそこが、誰にも邪魔されないし気兼ねもしない、社会や家庭ではない、自分にとっての「居場所」であり、それに没頭することこそが、自分にとっての「存在価値」なのです。

もし、すでに没頭できる趣味や嗜好などがあるなら、話は早いです。
その先で、それを、ITを通じて、マネタイズに繋げられたら、そんな幸せなことはありません。




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