特許翻訳の世界

特許翻訳の市場

メーカー等でエンジニア経験のある方は、過去に1度は、業務中に生まれた技術思想を明細書や図面の形でアウトプットしながら、会社名義で特許出願されたことがあるでしょう。
営業や企画部門などの非技術部門の方も、2000年代初頭の「ビジネスモデル特許」ブームで、机上で思いついただけのアイデアを知財部門に口頭で伝えて、特許出願されたかも知れません。

ちなみに、「発明」とは、特許法で、「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」と定義されています。
よって、ゲームのルールや料理のレシピのような、人間の思考フローやノウハウなどは対象になりません。
そしてその発明のうち、最終的に特許権を付与されたものが、晴れて「特許」と呼ばれます。

日本国内で1年間に特許出願される件数は、2016年は約32万件でした。
過去には、2001年に約44万件という最大の出願数を記録しましたが、その後の景気の低迷による企業内での経費節減・知財戦略の見直しなどで、その3割近くが減少しました。

日本出願を基礎にして、日本から外国に出願されるのは、そのうちの2割未満です。
目的国に直接出願することも可能ですが、日本出願を基礎にすると最初の出願日を確保できて権利化に有利なため、国内出願後の日本語明細書等をそのまま他言語に翻訳することが、メインの業務形態となります。

また、外国企業が、自国の出願を基に、日本に「外国」出願するケースもありますので、その場合は、彼らの公用語から日本語に翻訳する需要も発生します。

ちなみに、翻訳文提出なしに外国出願がされた後、手続きが最後まで完了されないで消えていくものもあるため、実際に翻訳される外国出願は、それよりもさらに少なくなります。

最終的に、出願対象国の現実の審査を求める外国出願に「翻訳工程」が発生し、そこに特許翻訳の市場が存在することになります。

翻訳言語と技術分野について

日本における外国出願の需要は、アメリカ(英語圏)と中国が2大(相互)翻訳先です。

そのため、翻訳言語では、まず、英語(日英、英日)の翻訳が、最も多くなります。

しかしこの市場は、新規の在宅翻訳希望者も多く、これまでの熟練翻訳者との競争が最も激しいところです。

また、電機メーカーを主とするクライアントからの値下げ要求が強く、翻訳単価は長年、低落傾向を続けています。
過去は発注側で現在は受注側となった私の経験から見ても、10年以上前のピーク時と比べ、1ワード当たりの単価は、「半値以下」にもなってしまっています。

今や、新規翻訳者(英日)のスターティングレートは、原語1ワード当たり、¥10未満は当たり前で、これで専業で人並みに稼ぐとなると、特許翻訳は、もはや知的労働でなく肉体労働の領域になってしまい、特許翻訳業界の先行きすら憂わざるを得ません。

それに比べて、中国語(日中、中日)の翻訳者はまだ生き残れる余地があるようです。

ただ、こちらは、日本語ができる優秀な中国人翻訳者との戦いになる側面があります。
中国の特許事務所は、米国の特許事務所と違って、直接、日本語の明細書等を扱え、コレポンも日本語でできるので、彼らとの戦いには、相当のスキルと覚悟も必要です。

その他、マイナー言語の需要もありますが、そもそもそのような国まで出願する案件は一部なので、翻訳市場そのものが小さいです。
しかし、数少ない翻訳者は重宝されて、逆に独壇場かも知れません。

技術分野でも、大きな差があります。

電気・通信や、IT分野では、これまで、電機・精密メーカーが国内最大の出願人で、一時は特許庁の審査遅延の問題まで引き起こすくらいの多数の特許出願が、毎年なされていました(そのため、審査請求を絞り込ませる行政指導もありました)。
しかし昨今、その多くが凋落して、特許出願数も激減してしまい、そのままこの分野の翻訳市場をシュリンクさせています。

特許出願をグローバルに展開する企業の知財部門では、外国出願、特に翻訳料の支出は莫大です。
また、国際特許事務所でも、翻訳料は、利益率も高い、とてもおいしい収入源です。

企業でも、お金のかかる外国出願件数自体を絞り込んできたのはもちろんですが、1件当たりの翻訳料を減らすことは、知財部門の経営課題の一つであり、あらゆる角度から低減化の方策を探っています。

その柱は、ボリュームディスカウント翻訳工程への参画です。

まず、ある程度の依頼案件数を保証することで、翻訳業者には、可能な限りの翻訳料低減を、相見積もりで提示してもらいます。

もちろん、品質まで低下させる訳にはいけないので、企業側も、訳出ノウハウのマニュアル・標準化、用語のコーパス化、チェック体制の役割分担、などの「品質担保の取り組み」を、自らが翻訳工程に積極的に参画することで担保しつつ、翻訳会社への支出を極力減らそうと知恵を絞っています。

その結果、特に電気分野の特許翻訳は、他の技術分野に比べて薄利多売状態にあり、翻訳者が受注できる翻訳レートも、軒並み下がっているのです。

もし、これから特許翻訳に新規参入しようと考えていて、専門分野もなく、技術分野を決めかねている方がおられたら、電気分野よりも翻訳レート単価が高い、バイオやメディカルなどの化学分野を狙われることをおすすめします。

もちろん、そのための専門的な勉強はしまくらないといけません。

そして、企業の知財部門が今後取り組んで行こうとする翻訳料低減化のもう一つかつ最も有力な手法が、以下です。

本当に賢くなった機械翻訳

それが、大幅に進化した機械翻訳です。

「機械翻訳」と言う言葉自体は使い古された感もあり、ベテラン翻訳者などは、「所詮、機械翻訳は生身の人間の代替とはならない」、と今だに高を括っている方も居るでしょう。

それが、昨年秋の「Googleニューラルネットワーク翻訳」の登場で、様相は一変しました。

これには賛否あるでしょうが、長年、日英の明細書を読み込んできた私には、そう思えてなりません。

もちろん、そのまま外国出願に使えるような完璧な翻訳にはまだ至りませんが、下訳としては十分なクオリティに進化しています(ただし、独特の文体であるクレームの訳出はもひとつ)。

もはや、以前のGoogle翻訳のように、ルールベースで文をパーツごとに置き換え組み上げて訳し上げるのではありません。

ビッグデータに基づく最新のAI・深層学習により、対訳データ(教師データ)を全体として、より高度かつ統計的に分析・利用して訳出しているため、先行する公報に同分野の記載などあれば、その人間が丁寧に翻訳した成果さえ生かしてくれます(それが災いとなることもあります)。

特許翻訳は、情緒で訳す部分がなく、一つ一つの言葉の置き換えに近い「直訳」を良しとする不文律もあるので、機械翻訳や蓄積対訳データの活用が向いています。

それゆえ、私には、新しいGoogle翻訳が、TRADOSのような翻訳メモリよりも賢く過去の翻訳財産をグローバルに取り出して活用してくれる上に、マッチングのない文章にまで高度な類推翻訳を提供してくれる「AI自動翻訳付き進化型翻訳メモリクラウド」と思えてなりません。

ちなみに、TRADOSの機械翻訳も賢くなる予定があるようですが、いずれは、進化著しいGoogle翻訳に飲み込まれる気がします。
翻訳業者はワークフローシステムとして利用し続けるでしょうが、私としてはクラウド利用もできなくてユーザーフレンドリーでもないTRADOSは、できれば扱いたくないのです。

特許翻訳の今後(私見)

ここまでできるなら、企業の知財部門としては、原文をそのまま翻訳依頼するのでなく、機械翻訳の出力を下訳として、それを英語面と技術面でブラッシュアップする作業とする位置づけで、より廉価で依頼したいと考えるのも無理はありません。

あるいは、アウトソーシングしていた翻訳業務の内部取り込みを、真剣に考えます。

機械翻訳クラウドに原文入力することが、新規性やセキュリティ上問題となる云々の話もありますが、PCT(外国出願ルートのひとつ)であれば、発明内容も出願人名もすでに国際公開された後の翻訳が一般的なので、企業側がその利用を割り切ればいいだけの話だと思います。

現在でも、欧州特許庁のWEB(Espacenet)では、PCT国際公開公報の、Googleエンジンによる機械翻訳をリアルタイムに入手可能であり、Googleにはとっくに知られているのと変わりありません。
もちろん、公開前(公知でない)明細書等の特許翻訳に使うのは、これまで通りご法度です。

いずれにせよ、企業が機械翻訳導入に積極的に乗り出せば、特許翻訳業界は大きく変わる可能性があります。

これから特許翻訳業界へ新規参入される方は、今のうちから、機械翻訳導入前提のスキルを身につけた方が、現在の熟練翻訳者との競争でも、勝ち残れるかも知れません。

それが具体的に何なのか、機械翻訳のポストエディットなのか原文のブラッシュアップなのか、あるいは逆に、思い切りITを味方にして最大限の効率化を図ることか、まだ分からない私も、いずれはドラスティックな地殻変動を避けられない特許翻訳業界への「危機感」だけは、しっかり持ち合わせているつもりです。




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